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人が学ぶプロセスや、そのプロセスに影響を与える要因はどういうものか――。今回は、認知科学を土台に「人はいかに学ぶか」を研究している三宅なほみ先生を訪ね、企業人の学びをエビデンス・ベースで考えるための視点を探ります。

企画・編集/宮原詩織、編集・写真/渡邉真紀 
*文中は、敬称を略します

仕事場の学びと、教室の学びの違い

藤原
今日は人の学びを研究し、その成果を国内外に発表していらっしゃる先生にお会いできることを楽しみに参りました。まずは、学びの専門家から見た企業教育についてお話いただきたいと思うのですが、いかがでしょうか。

三宅
ええ、そうですね、企業教育についてですか。
実は、学校教育に関わる者の視点から見ますと、職場の教育は「上手くいっている」ことになっているんです。謎めいた言い方になりますけれど、この辺りからお話したら、よろしいでしょうか。

考えてみますと、学校には「落ちこぼれ」というのがありますが、職場にはそもそも落ちこぼれはない、という研究報告があります。たとえば産婆の家に生まれた子は、大体みんな紆余曲折があっても結局は産婆になります。お婆さんのお産に付いて回るうちに、村でお産があると「○○婆さんの家の娘を呼ぼう」と声がかかるようになっていく。洋服の仕立屋に弟子入りした子も、それなりにみんな仕立屋になっていくのだそうです。何年か経つとその家を継ぐか、分家してもらう。つまり、職場の学びは失敗することが、ほとんどないそうなのです。

かつて、ジーン・レイヴという文化人類学者が、こういう徒弟の学びを観察しました。1日をどういう風に過ごしているとか、周りにどういう人がいるとか、どんな仕事からやらせてもらって、どの位で出来るようになるか、そういうことを現場で観察し続けた。すると、職場では、学校とまるで逆のことをしているらしいんです。

たとえば、学校では、先生だけが将来何が大事になるか分かっていて、まずそのための基礎から順々に教えようとしますけれど、子どもは完成品のイメージをまったく知らないでただ練習する、というようなことがよくあります。「将来きちんとした文章を書くには必要だから」と先生だけが分かっていて、子どもが漢字の練習をする、などがこれにあたります。

でも、仕立屋での学びですと、徒弟でも、お客様の体に合うように作られた礼装用シャツを見たり、それを作っているベテランの周りで掃除しながら、制作のプロセスを見たりする。そして、徒弟もその作業に適当に関わりながら、徐々に関わりを増やしていく。初めは、完成品にできるだけ近く、やり損なってもいい作業を任されるそうです。ボタン付けのような完成品に関わる作業や、アイロンがけのような全体像が見える作業を任されるのだそうです。家庭科ですと布の裁断や型紙補正から入りますけれど、これは失敗すると取り返しがつかないですから、最初はやらせてもらえないですね。

また、職場にはそれぞれ違うことができる人がいます。レベルも様々で、マスターやセミマスター、数年目の人がいたりする中に、新人はちょっと混ざった状態です。
そういうコミュニティの形も、先生が1人で新人が大勢の教室とは、大分違います。

こうした職場で上手くいっている学びの特徴から考えると、学校で「何のために今これをやるのか」の目的と「どういう順序で何をやっていけば、何ができるようになるのか」の完成までのプロセスを子どもにも見えるようにすると、学校でも落ちこぼれないのではないか、と考える人たちも出てきました。学習を「状況に埋め込まれているからこそうまく行く」と考えるわけですね。こういう「状況に埋め込まれた学習」という考え方が、大変に流行った時期もありました。

* 状況に埋め込まれた学習
学習の効率は、学習者がその学習の目的をどうとらえるかによって異なることから、学習を、学習者のとらえる状況に合わせた認知技能獲得行為だと考える考え方が出てきた。元になったのは、ジーン・レイヴらによる学校場面で獲得された認知機能と、日常生活で獲得された認知機能の間の差異についての研究である。レイブはリベリアで仕立て屋の徒弟として働く人々について、仕立て業での計算能力や学校での計算能力と、彼らの学校歴と仕立て業としての訓練期間の関係を調べた。結果、仕立て業で実践する計算能力を予測するのは仕立て業としての訓練期間であり、学校歴の長さではないとわかった。言い換えれば、学校で計算を長く練習したか否かは、仕立て業に必要な計算が上手くできるかどうかを予測しないという結果を引き出し、学習が仕立て屋なら仕立て屋、学校なら学校という、状況に埋め込まれたものだという考え方の端を発した。学校での計算能力は学校歴により予測される結果が出たことは、逆に言うと学校で学ばれる知識は学校内の状況においてどれだけ有能に振る舞えるかを予測する。その意味で学校も一つの状況であって、ここで成された学習も状況に埋め込まれた学習であり、学校で学べる技能は状況に埋め込まれているといえる。このような考え方は、学校がどういう状況なのか、あるいはどのような学習なら転移可能かなどについての学習科学の発展をもたらした。(解説:三宅なほみ)

 

藤原
たしかに、仕事場で学ぶのと教室で学ぶのでは、かなり様子が違うものですね。
それから、今のお話を伺って「現場の外」という意味では、企業研修も学校と共通の問題を抱えているのかもしれないと思いました。私たちはお客様の現場での学びをコンサルティングすると同時に、Off−JT(Off the Job Training)という、いわば現場から少し離れた所で研修を提供する立場でもあります。

三宅
そういう意味では、学校教育と共通点があるのかもしれませんね。
ひとつ、おもしろい文化人類学の研究があります。肉屋がたくさん必要になったとき、各店舗で包丁の使い方を育成するのは手間がかかるので、肉屋のいわば専門学校を作ったそうです。ところが、ここで認定証をもらうまで、職場を離れて何ヶ月か過ごしている間に、現場の需要が変わってしまう。つまり昔は厚い肉が流行っていたけれども薄い肉が流行るといったことが起きる。なので、専門学校から帰ってくると、そこで習ったことはもう役に立たなくなっている・・・。企業研修も、一筋縄では行かないところがありそうですね。

藤原
そうですね。「現場で使えることをどれだけ学んでもらうか」というのも、私たちが日々チャレンジしている課題です。仕事場での学びを企業のOJT(On the Job Training)と考えますと、現在はキャリアの積み方も多様化して徒弟制が実現しにくくなっている状況がありますので、研修に求められるものがあるのだと思います。しかし、気づいたら形骸化した知識を切り売りしていた、とならないように、現場の要請を把握して確実に対応していかなければなりませんね。
また、最近のビジネス環境では、次世代に活躍する人を育てようと考えましても、次に成功するためのモデルそのものを明確に定義できないことがあるようです。

三宅
研修でマスターする、そのモデル自体も、新しく作り出したいということがありますでしょうか。

藤原
ええ。いわゆる高業績を上げた方の特徴から考えますと、過去の成功を再現できるだろう人材像は特定できますが、それに留まってしまう可能性もあります。企業のビジネス環境の変化に応じて新たに必要とされる能力を設定して、それに向けた能力開発や、能力評価などが一層求められると思っています。


成功話で語られない、結果を左右する多様な要因

藤原
私は、いわゆるコンサルタント会社には、先行した知恵を持っているとか、他の企業がお持ちの経験や知恵を他の企業に翻訳して提供できるという優位性があると思っています。

三宅
そうですね。企業の経営者がそれぞれ好むモデルや成功話があるとすると、「私の会社でも、これが上手くいくんじゃないか」と考える方がそれを導入することはある気がします。

学校の場合は、ある程度そうやって導入されることはありますね。ある所で大勢の方が取り組んで、いろいろな好条件が上手く重なって、注ぎこんだ努力だけのものが出てきたとします。しかし、実際にやっていたことがいかに複雑でも、そこで起きたことが一つの話として一般書に書かれるなどして世に出るときには、比較的単純な話になっていたりします。
ちょっと前の話ですが「堀川の奇跡」というのを、ご存知でしょうか。京都の先生方が公教育を守るために、高等教育の改革に取り組んだ事例です。京都市立の中堅で苦戦していた高等学校だった所を徹底的に生徒中心型の授業を行う学校に改革して大成功したという話です。
何をやったかをまとめてしまいますと、2年間は徹底的に高校生ひとりひとりのニーズに合ったプロジェクトを割り当てて、高校生は「高校は、自分の好きなことを学べる所だ」と知る。3年生になったら、やりたいことと大学の研究室を検討して、「そこに行くなら何をしておくとよさそうか」「その学校のカリキュラムは何か」を考えて、せっせと勉強する。そうするとちゃんと希望大学に入れる。実際にはもっとずっと右往左往があったと思うのですけれど、簡単にいうとそういう話なんですね。そういう中で高校が変わっていったことが、「堀川の奇跡」と呼ばれています。

これを実現するために、現場の先生方は「何をやったらいいのか」を、何度も繰り返し一生懸命話し合って、様々なことを決めていかれたようです。でも、その話し合いがどの位複雑なもので、どこがいつどういう理由でどう変わったかという経緯そのものを、本から読み取ることはできません。先生たちは覚えていらっしゃるかもしれないのですが、奇跡が起きて本になったときは、そこにはもう書かれないことがたくさんあるはずですね。ですから、本を読んで同じことをやろうとしても、なかなか難しいだろうと思います。

一方で、この事例が理科教育に与えた影響を考えてみますと、違ったことが見えてきます。たとえば、この学校の生徒が物理学オリンピックで賞を受けるなど外から見て非常にわかりやすい形で成果が出た結果、これが「プロジェクト型で近隣の大学を巻き込んで、高校生がひとりで取り組める課題を見つけてあげればいいらしい」と考えられ、みんな同じようなことをやってみよう、ということになります。SSH(科学技術進行機構が支援する理科教育に特化した高等学校授業改革プログラム)などで5年間支援を受けている間にこういうことが起きたような場合、5年後には近隣の学校にその成果を広げて行くことが要請されますので、近隣の学校が「同じようなこと」をやろうとします。しかし、現実には必ずうまく結果が出たとは限りません。

これは、私にはホーソン効果も入っているような気もします。つまり、工場で働く工員の処遇を変えると、処遇をどう変えても効果が上がる。ここでは「処遇を変えるまでして自分たちが働き易くなるように上部が努力してくれている」と工員が感じることが大事で、どう変えるか自体はあまり関係がない、ということが起きているかもしれないわけです。言い換えれば、最初に先生方が真剣に改革に取り組んだ所では、いずれにせよその誠意や熱意が「やってみたことの効果」として現れてくる。それを次に受け取って「同じこと」を起こそうとする場合、初回にはそういう効果も含めてさまざまな要因が働き合っていたはずだと考えて、これらの要因を引き継がなくてはいけないのだろうと思います。

それから、私たちはある試みが成功すると、成功したことに気を取られて、それ以外のことが見えていないのに気付かないことが多いような気がします。というのは、成功の裏を検証したという話を、ほとんど聞いたことがないからです。この例でいえば、ある学校がSSHに指定され、競争率が上がった結果、その高校に行くつもりだったのに行けなかった高校生はどうなったでしょうか。あるいは、プロジェクトで自分がやりたいことを、やって価値があり、高校で取り組めるサイズとレベルの課題に落とし込もうとして、うまくフィットしなかった場合、どうなったのでしょうか。こういう高校生がどういう進路をたどったか、報告されていないのが現状です。本当はそういうところに、近隣の学校が学べる素材がたくさん隠されているかもしれないと思います。

藤原
事例の背景にある文脈が失われないように留意しているつもりなのですが、どうしても、いいところだけを残してしまうことがあるのかもしれませんね。私たちコンサルタントは、他社の事例が相手企業の文脈にどうフィットして、どう落とし込むのかというところまで責任を持って現場に入りこんでいかなければいけないのだと思います。


「学びとはこういうものだ」という、擬似モデルの危うさ

藤原
企業でも、たとえばSWOT分析のように実証研究を抽象化したモデルを使って研修することがあります。私はこういったツールも有用だとは思うのですが、「それでいいのだろうか?」と感じています。背景を考えずツールだけに頼ると応用が利かないですし、ツールによって、かえって思考が固定化されてしまう面があるからです。ツールを使うとある程度はロジカルなアウトプットが仕上がって、一定の水準の納得感が出ますけれど、それが本当に価値ある意思決定かといいますと、疑問が残ります。

* SWOT分析: 企業の戦略立案を行う際に使われる主要な分析手法で、組織の外的環境に潜む機会(O=opportunities)、脅威(T=threats)を検討・考慮したうえで、その組織が持つ強み(S=strengths)と弱み(W=weaknesses)を確認・評価すること。経営戦略策定のほかにマーケティング計画やバランスト・スコアカード、ISOのマネジメントシステム構築など、幅広い分野で活用される。(アイティメディア株式会社 IT情報マネジメント辞典より引用,http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/swot.html

三宅
確かに「ツールによって、かえって思考が固定化されてしまう」ということはあるだろうと思いますね。
大半の研究者にとっても、混乱するようなものの言い方になりますけれど・・・。

抽象度の高いモデルが持つ客観性という意味では、私たちが物理学について「客観性がある」と思っていることも、そもそも人間が作った知識ですから、危うい土台に立っているのかもしれません。教科書的には理想条件を考えて「水が沸騰するのは100度」とか、「1mはこういう長さ」と決めたことになっている。メートル原器が実際に保管されているわけですが、これは現実的に考えると「作ってから相当経っているから当然これは長さが変わっているかもね」という話になります。学校は高い山の上にもありますし、気圧もいろいろ変化しますから、いつどこで実験しても100度で沸騰するとは限りませんね。物理的な現象についてすら、こういう多様性があるでしょう。そういう意味では高度に抽象化された理論は、「現実には当てはまらない」ものです。人を扱う教育や研修は、もっと多様でしょうね。

おそらく、子どもの教育から経営、医療の場など本当にいろいろな分野で「どういうことをやると、よさそうか」を考えるとき、私たちが「知っていると思っていること」のほとんどが、実態に基づいていません。人が「人とはそもそもこういうもの、こうするものではないか」と、「人について持っているモデル」に基づいて、作られているのだろうと思います。

典型的な例では、ノーベル賞の受賞者を学びの成功者だと考え、その方の専門が経済であれ自然科学であれ、「あなたはどう学んできましたか」「ご自分の経験を踏まえて、子どものときに何をしておくといいのでしょうか」と伺ってみたりしますね。すると、その方たちは「やっぱり好きなことに時間をかけましたね」とか「先が見えなくても繰り返し練習するのが大事ではないでしょうか」とか、「いい仲間がいて、いろいろ議論できたのが良かった」など、色々な話をなさる。そこまでは良いですが、「じゃあ、ノーベル賞を取るほどの人が良いと言うことだから、それを実際学校でもやってみよう」というのは、どうなのでしょうね?

簡単にいうと、これは、ノーベル賞を取った「人」が、「人とはどのようにして学ぶものか」について知っているモデル、本当だと思っているモデルをもとに話をされている可能性が高いです。「ほとんど根拠がないかも」と一度疑ってみる価値がある、というようなものです。現実の場面に即して物事を考えるときは「当たらずとも、遠からず」「ものを考えるひとつの手がかり」と考えたほうがいいだろうと思います。

なぜかというと、人が学んでいるプロセスの中では、とても多くのことが起きていて、しかもそれが互いに影響し合っているので、実際何が起きていたのかを正確に話すことはほとんどできないものだからです。学びのプロセスをすごくミクロに追いますと、「この人はこの時、こんなことを考えていたらしい」「こんな線を引いた」「思いがけず、ここでこんなものを見た」などなど、人は随分たくさん知識を持ち込んで、その場その場でいろいろなところに気を配り、たくさんのことを考えながら、全体としてつじつまを合わせようとしながら考えていることがわかります。

子どもが引き算をできるようになるまでであれば、近くにいる先生がどう振舞ったかとか、周りの子どもが何と言ったかなど、その子どもの行動に影響を与える様々な要因があります。その上で、ある答えに到達する。もし見えればという話ですが、プロセス自体は正しいのに最後に間違った答えを書いてしまったとします。周りが「違う」と言って、最終的に先生が子どものやろうとした方法と違う方法を示して「こう計算すればいいんだよ」と言ったら、その子どもには「なんだか自分のやり方では答えが間違っていた」ということしか残らないかもしれません。
プロセスが全て捨てられてしまうんです。人が「何を考えて、どう進んで、何を思いついていたか」など、考えのプロセスで起きていたことを語り切ることは、できないんですね。

たとえば、今この部屋を見て、何冊くらい本があるとか考えますと・・・すぐには、わかりません。これが図書館司書の方だと、部屋の本棚をざっと見渡して「4,000冊くらいありますね」とか、わかるんですね。
以前実際にそう言った方がいらしたので、彼女が帰ってから研究室の本を数えてみたところ、上2桁まで合っていました。
その後、どうやって書籍の数がわかったのか彼女に聞いてみますと「洋書ですからほぼこのサイズで、大体この厚さですから、ぎっしりこの段に詰めたら何冊くらいで、何段あるから・・・」と、いかにもそういう処理をしていそうなことをおっしゃる。でも、この説明は、後から本人が説明のために考えたものかもしれなくて、本当に起きていた知覚のプロセスであるとか、彼女の判断力というのは、話せることとは大分違う可能性も高いのです。そもそもこの本棚を見て頂けばわかるように、私の本棚、同じ種類の本が集まっていませんから、彼女もその辺は計算に入れてもっと複雑なことをやっていたのではないか、と思います。

藤原
ことばでは説明できないメカニズムが、そこに働いているということですね。

三宅
ええ、彼女が部屋を見回しているときに、私が「外にもダンボール1箱あるから」とか話しかけたりしますと、本棚を目で追いながら、耳で私の話も聞きながら、頭の中で数を調整したりもしているんですね、たぶん。

かなり古い研究ですけれど、人がどうやって問題を解いているかを調べて、途中でさりげなくヒントを出したら効くのか、どのヒントが効くのか、ヒントが出てからどの位で答えが出たかといったことを調べた「二本の紐問題」という研究があるんです。そこで問題を解いた後に被験者に「どうやって解きました?」と聞いてみると、途中で「ヒントが出た」ことを言語化できる人は、ほとんどいなかったそうです。

* 二本の紐問題(Maier, 1931)

問題:「天井から二本の紐がぶら下がっている。片方の端を片手で握って、もう片方に手を伸ばしても、届かない。この時、二本の紐を結びつけるにはどうしたらいいか」(実際にはこの問題は図で示され、その図には部屋の床に、椅子、釘、ボルト、ペンチ、マッチなど、雑多なものが置かれている)
ヒントとその効果:実験者が部屋の中を動き回っていて、タイミングを見計らって肩で一方の紐を軽く揺らす。そうすると、この後45秒以内に被験者がペンチを取り上げて片方の紐に結びつけ、それを重りにして振り子のようにして紐を大きく揺らしておいて、もう一方の紐の方に行きその端を片手でつかんで、ペンチが自分の方に揺れて来たのを捉えて紐をつかみ、二本を結び合わせるなどの解が得られる。

実験後:「どのようにして解を思い付きましたか」と聞かれた時、「あなたが肩で紐を揺らしたから」とは答えず、多くの人は「ふと気づいたんです」「こういう答えしかありえません」と言った。被験者には「急に思い付いたんです。あ、木にぶら下がった猿が川を飛び越えるイメージが湧きました」などの回答をした心理学者もいた、と報告されている。

(解説:三宅なほみ 出典:Nisbett, R., & Wilson, T. (1977). Telling more than we can know: Verbal reports on mental processes. Psychological Review, 84 (3), 231-259.)

藤原
そのヒントは、アウトプットに確実に影響を与えていると思われるんですね?

三宅
はい。ヒントと言っても「こうやるといいですよ」といった直接的なものではなく、答えのキーになる紐をちょっと揺らす程度のことですけれど、そうしないと答えが出ないし、出せば答えが45秒で出る、といったことがわかっています。実験心理学者としては、実際ヒントを出せばほとんどの人が解ける訳ですから、その行動からヒントが効いていることはわかる。しかし本当に効いていると他人にも説得するためには、もうひとつ証拠が欲しい。被験者に「なぜ解けましたか?」と聞いて「あなたがヒントをくれたから」と言って欲しいわけですね。ところが、これ、ほとんどの人が言えないんです。

藤原
そうなんですか。一体、なぜなんでしょう。なぜ、ヒントに気がつかないのでしょうか?

三宅
たとえば、今私は、この花瓶の花の色を、それぞれの色に名前を付けて区別できるほど意識はしていませんけれど、「違いは分かっている」のですね、多分。でも、このインタビューが終わって部屋を出てすぐ、藤原さんが「あの花瓶には何色の花が生けてありましたか」とお聞きになったら、おそらく答えられないだろうと思います。その理由は、色の違いは微妙な判断ですし、インタビューの中で伺ったお話の面白さなどの印象のほうががよほど強くて、そちらを「ことばとして」覚えているから、あるいはもっと直接的には「インタビューとはこういうものだ」という私のインタビュー・モデルの中に、花の色についての情報が入っていないからなのだと思います。

自分が探している情報がどこかにあれば、それを取り込んだことをきっかけに、自分の持っている既存知識とつながって、忘れていたことが出てきて問題が解ける、ということが起きるのかもしれないです。でも、先ほどの問題場面で起きていたのは微妙な環境の変化まで取り込んだ複雑なプロセスなので、振り返っては語れないのでしょうね。

それから、こうした行為の最中は、情報を処理しては捨て、処理しては捨て、ということを繰り返しているので、言語化できるプロセスとしては速過ぎるんですね。どんどん消えていきますから、速すぎて言語化できないのだろう、ということもあります。

もうひとつは、解いてしまって一息ついて、1分ほど経ってこのプロセスが消えたときに「どう解きましたか」と聞かれると、人は、自分のこれまでの経験や、人から聞いた話、「こんな風に問題を解きましょう」という本を読んだりした知識など、人の問題解決に関するもっともらしい話をたくさん知っているものなんですね。

藤原
行為の、後付けの説明というものですね?

三宅
はい。その、後付けモデルというのは、1人歩きをする・・・。
おもしろいのは、後付けモデルが、人にとってもともと了解しやすいモデルだというところですね。

「要因1から100がありまして、これが相互作用しまして、偶然にも36と72がぴったり合ったものですから、よくわからないのですが、こことここが結びつきまして・・・」なんていうような説明をされても、プロセスが全然「見えない」ですね。
でも「ずっと見ていたところ、この角度から見ると、AがBの対角だと思ったので、解けました」のような語り方をされると、聞き手は「ああ、目の付けどころが変わって、問題が解けたのか。確かに解けるだろうな」と了解できて、それがよさそうに聞こえてしまいます。そうすると、実際には目の付けどころとか、何が見えたのか、具体的にはことばになっているだけでも複雑なんですけれど、人が覚えているのは、「目の付けどころを変えると解ける」というような、「モデル」です。このモデルが実情に即して「合っている」保証は、どこにもありません。ただ、分かり易いことは確かです。

学びのプロセスは、そのデータを蓄積すればするほど、語れない量の多様な要因とインタラクションを起こしていると思われるのですけれど、ここをきちんとモデル化した「人はいかに学ぶか」論がないんです。
人の学びに関するデータが非常に貧弱だから、そこをきちんと「科学」し直そうという気付きが、認知科学をベースに「学習科学」という研究領域が立ち上がってきた理由のひとつだと思っています。

藤原
私たちには、無意識に自分が求めていることを探して、確認してしまうところがあるのかもしれません。過度の一般化というのでしょうか、これが氾濫している中で、それに影響されずに問題状況を見つめるのは非常に困難なことです。コンサルタントとしては、問題解決に必要な道具を提供しながらも、形骸化の危険をはらんでいることを肝に銘じる必要があるように思います。こう考えますと、学習科学の分野で明らかにされつつある知見は、人の学びを支援する上で参照すべき、重要なデータになりそうですね。

今回は、学びのプロセスに関する話題をご紹介しました。次回は、インタビュー後半を掲載する予定です。(12月20日に更新予定)

プロフィール *取材時(2011年8月)の情報を掲載しています。


三宅 なほみ(みやけ なおみ)

東京大学大学院教育学研究科 教授・大学発教育支援コンソーシアム推進機構 副機構長
1982年カリフォルニア大学サンディエゴ校心理学科博士課程修了、Ph.D. 2008年11月より現職。International Society of Cognitive ScienceならびにInternational Society of the Learning Sciences常任運営委員(後者で2007.6〜2008.7会長)。協調的認知活動による理解深化過程を認知科学的に解明し、学習支援に結びつけることを研究テーマにしてきた。人が考えていることの軌跡を残すなど、認知過程を外化して学習者が内省しやすい学習環境を設計し、実践的に評価してその場で起きる学習過程の分析から学習の理論構築を目指すなどの理論的研究を経て、現在20の教育委員会と連携し、全国の小中高等学校67校で102名の先生方と「知識構成型ジグソー法」と呼ぶ枠組みに基づく学習者中心型授業の効果を実践的に実証しようとしている。

 

藤原 浩(ふじはら ひろし)

株式会社 マネジメントサービスセンター 代表取締役社長
1986年京都大学文学部社会学科卒業。アンダーセンコンサルティングを経て、1993年マネジメントサービスセンターに入社。人材開発コンサルタントとして大手金融機関、大手メーカー、医薬品メーカー、外資系企業などをクライアントに持ち、エグゼクティブ及び管理職のアセスメントやコーチングなどを担当。企業のビジネス戦略の実現につながる能力開発・選抜プログラムに携わる。2011年より同社代表取締役社長。企業の成長の鍵を握る人材の特性を見極め、成長を加速させる最適なソリューションを提供することで、クライアントの成果に貢献する人材開発コンサルティング会社を目指している。

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