キャリアシフト CAREER SHIFT ―「キャリア権」の意義と今後の方向性<第2回>
講演者:法政大学名誉教授 諏訪康雄先生
(2018年4月2日(月)株式会社マネジメントサービスセンター本社にて開催)
2018年4月2日(月)、厚生労働省「キャリア形成を支援する労働市場政策研究会(2002年)」で座長を務められた法政大学名誉教授の諏訪康雄先生をお迎えし、「キャリアシフト」をテーマにご講演いただきました。その内容をご紹介するレポートの第2回。
今回は、「キャリア権」とはどのようなものかについて、法的基盤やキャリア支援の意義を含めて理解を深めます。
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第1回 基本的視点――人は、キャリアをどう評価するのか>>>
第3回 私たちに求められる「キャリアシフト」>>>
第2回 「キャリア権」とは――キャリア支援を支える法的基盤と今後の課題
●企業が社員のキャリアを尊重し、支援するようになれば、社員のエンゲージメントは高まり、自分の仕事に熱心に取り組むようになることで、企業自身の活力と生産性も高まっていく
●自律の発想にシフトするポイントは、①生涯学習、②共時・共場・共験・共友、③自助・共助・公助
「キャリア権」の生まれた背景
キャリアを巡っては、農業社会から産業社会に移っていく過程で、20世紀初めに応用心理学の分野で、あるいは、社会学、経営学、経済学の分野で多くの研究がなされてきました。しかし、不思議なことに、労働法の視点からキャリアそのものが研究されることは、ほとんどありませんでした。
労働基本権に基づき、労働法がある。環境権に基づき、環境法がある。プライバシー権などに基づき、情報法がある。しかし、キャリア権に基づくキャリア法というものはありません。
最近では、スポーツ権という考え方を基に、スポーツ基本法という法律(2011年)もできました。この法律の前文によると、スポーツ権は、「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは、全ての人々の権利」とあります。たしかにそれは大事なことですが、ある意味、仕事を通じて幸せになることのほうがさらに先に来るべき問題ではないでしょうか。こうした発想も踏まえて1996年に生まれたのが、職業生活を通じて幸福を追求する権利――「キャリア権」です。
キャリア権の根拠は憲法にある
キャリアの問題は、法律学の分野では長らくあまり問題にされてきませんでしたが、実は、すでに憲法上、キャリアにかかわる内容は定められています。
まず、生存権(憲法25条)をベースとして、個人としての尊重、幸福追求権(13条)があります。そして、キャリアを築いていくために必要な教育を受ける権利、学習する権利(26条)があり、これらを踏まえたうえで、職業選択の自由(22条)、さらには、労働の権利と義務(27条)があります。「キャリア権」というのは、これらをあらためて体系化した「理念的な権利概念」であり、自分のキャリアを自己決定していくことを支えようとする権利概念(法理念)です。
ただし、法的には、これらはすべて自由権規定であるか、プログラム規定(憲法や基本法などの上位法によく見られる、国の政策の指針や責務の基本方向を示すにとどまる条項)と呼ばれるもので、国は最大限尊重するべきでものですが、原則として、個々の市民と市民の間で相手方に具体的な拘束力までが生じるものではありません(間接的な効力はありうる)。「私にはキャリア権があるから、おたくの会社で雇ってください」などと主張できるものではないのです。
人事権もそうです。「人事権」という語は、法律の条文のどこにも載っていません。でも、企業社会の現実では大きな力を持っている。それは、個々の労働契約(雇用契約)で、会社が要請する人事権を含んだ契約を労使が結んでいるからです。力関係から設定された契約条項にすぎませんが、違法であったり、公序良俗に反したりするなどのことがない限り、法的拘束力は生まれ、そうした人事権の行使は権利濫用などがなければ法的にも効力を持ちます。
キャリア権も、次の立法措置で具体化されたり、個別の契約で約定されたりしませんと、市民同士(労使)の間で権利・義務関係を生じることは難しいです。現状ではせいぜい、一定の人事権の行使(著しく不合理・不適切な配置、配置転換、業務命令など)がキャリアの観点から権利濫用と判断され、無効となることがあり得るくらいに留まっています。
このように、キャリア権は理念的・抽象的な権利ではありますが、個人がキャリアを展開し、国が次の時代の政策を進めていくうえでの基盤となる概念ということができます。
法律や公共政策に広がるキャリア権の考え方
2001年に、キャリアに関するさまざまな法制度が動き出しました。
キャリアのことを、職業能力開発促進法では「職業生活」と表現しました。ワークキャリアとも呼ばれることのある、職業展開に焦点をあてた狭義のキャリア概念であり(広義のキャリア概念はライフキャリアとも呼ばれる)、キャリアデザインは、なんと「職業生活設計」という表現になっています。
雇用対策法第3条には、基本的理念として、「・・・・・・職業生活の全期間を通じて、その職業の安定が図られるように配慮されるものとする」と定められています。そして、職業能力開発促進法第3条で、「労働者がその職業生活の全期間を通じてその有する能力を有効に発揮できるようにすること」に照らし、キャリア形成を支える能力開発が「労働者の職業生活設計に配慮しつつ、その職業生活の全期間を通じて段階的かつ体系的に行われることを基本理念とする」と述べられています。
さらに、2015年の職業能力開発促進法改正では、こんな努力義務が労働者に課されました。
「労働者は、職業生活設計を行い、その職業生活設計に即して自発的な職業能力の開発及び向上に努めるものとする」(第3条の3)。
2016年から施行されていますが、皆さん、自分の将来のキャリアについて考え、その実現に向けた能力向上に努めていますか。4条や10条の3では、事業主の努力義務や配慮義務も定められており、キャリア心理学の花田光世先生は、この2015年法改正によってキャリア権が具体的に成立した旨をおっしゃっています。
企業からすると「余計なことをして」と思うかもしれませんが、中長期的に考えれば、絶対にこのほうがいい。人的資源の開発をしなければ、日本の産業も企業も非常に厳しい状態になります。今日、明日にすぐに役立つものではありませんが、長い目で見ると、国の、社会の底力を上げていく原動力になります。
キャリアを表す「職業生活」という言葉は、女性活躍推進法(女性の職業生活における活躍の推進に関する法律)で初めて法律のタイトルに入りましたが、今では、男女雇用機会均等法、障害者雇用促進法など、50の法令に使われるまでに広がりました。
裁判例でも、キャリアに言及するものが増えています。例えば、情報処理業務で雇った人を倉庫に配置転換したことが、契約内容やキャリアを尊重していないという理由で人事権濫用と判断された例があります。
公共政策においても、教育政策、雇用政策、社会保障政策などさまざまな取り組みが行われるようになってきました。
キャリア支援の意義と課題――自律の発想を生む3つのポイント
「キャリア支援」というと、「流動化社会や転職社会につながる」と反対する人がいます。雇用を保障する組織の中では人事権で動くのが当たり前なのだから、キャリア尊重やキャリア支援は雇用保障を軽視し、雇用の流動化を促進するものであるといった主張です。
しかし、私は、キャリア支援は、組織内においても意味があると捉えています。なぜかというと、組織の中でも、キャリアの選択の余地は絶えずあるはずで、働く側の意向との摺り合わせの余地はあるはずだからです。会社がすべてを一方的に決めるということであれば、極端な言い方をすると、形を変えたソフト化した「奴隷労働」のようなものです。やらされ感ばかりが先に立ち、仕事が自分のものという感覚やエンゲージメントを生むことが難しくなります。
「人材育成」というのは、上の立場の人が下の人を引き上げていくという、少し上から目線の言葉であり、他律の発想です。そうではなく、自ら「人材形成」あるいは「キャリア展開」していく“自律の発想”にシフトするためには、何が必要でしょうか。私は、次の3つが大事だと考えます。
① 《生涯学習》 の不可欠性
② 《共時・共場・共験・共友》 の大切さ
③ 《自助・共助・公助》 の枠組みのなかでのキャリア支援
例えば、今は第3次AIブームですが、第2次AIブームで「エキスパートシステム」を研究していた人に、今のAIの「ディープラーニング」が新たに学習しなくてもすぐ分かるでしょうか。いろいろなものが急速に変化していくなか、我々は時代変化とともに勉強し続けなければなりません。まさに「生涯学習」です。これは個人だけの責任として済む問題でなく、社会的、あるいは組織内の雰囲気づくりも必要不可欠です。
実際、生涯学習が大事だといっても、一人でやり続けられる人はごくわずかです。自ら仕事に役立つ学習を進んでする人は、各種調査からすると、働く人びとの1割いるかいないかでしょう。
「共時・共場・共験・共友」――同じ時、同じ場所に集まり、同じ経験をする。そのなかで、互いに教え合い学び合い、ヒューマンネットワークができる。学校はまさにこの「共時、共場、共験、共友」の場です。この仕組みを社会や企業組織のあちこちに形成することが、生涯学習を支えます。
「自助・共助・公助」という考え方も重要です。個々人が努力する「自助」、社会や会社などで互いに助け合う「共助」、国や自治体が公に支援する「公助」がうまく組み合わさらないと、世の中はうまく回りません。
自助だけでキャリア形成ができる人はごくわずかです。共助は、日本の会社は昔はかなり熱心でしたが、「失われた20年」の間に教育訓練費はどんどん下がり、QCサークルなども少なくなりました。
だから、何らかの形で「共時・共場・共験・共友」を実現する社会的仕組みが必要です。デンマークでは、夜、学校の教室を開放していて、そこに地域の人が集まり、互いに教え合ったり、勉強したりするそうです。
ちなみに、教えるというのは、教える本人にとっても大変有益です。学習の定着化において、「ラーニングピラミッド」という考え方があります。これによると、講義を受ける→本を読む→ビデオや音声で学ぶ→ロールプレイなどをする→ディスカッションをする→教わったことを仕事や生活の中で体験する――という順に理解が深まり、一番学習したことが身につくのが「人に教える」ことです。
日本でも、「シブヤ大学」という、区も補助金を出す、若者が中心になって始めた教え合いの場があります。専門家を呼ぶのではなく、お互いが仕事でかかわっている分野のことなどを話し、皆でワークショップをします。札幌、名古屋、大阪などでも、同様の組織が生まれています。
デンマークは、学校開放によって地域にコミュニティを作ることにも寄与しています。日本の場合、定年退職してから急に地域に参加しようとするので、「今ごろ、何をしに来た?」という顔をされ、居心地が悪くなって行かなくなってしまったりします。そうならないように、日本も定年を迎える以前から地域のコミュニティに参加を促すよう、何らかの対応、仕掛けが必要だと思います。
キャリア権を尊重する企業の実例
日本にも、キャリア権を尊重している会社はあります。平均年収の高い会社として有名な半導体製造機メーカー、ディスコでは、社命による異動はあまりなく、本人の「異動の自由」を推進しています。本人の異動希望先の上長が受け入れを決めたら、異動元の上司が拒むことはできません。その結果、元の職場に人が足りなくなったら、外注することも想定しているそうです。人事情報の共有のために、社員の経歴や保有資格を閲覧できるアプリを独自開発するなど、工夫を凝らしています。なぜこんなことをするかというと、人材を活性化し、人材の流出を防ぐためです。
外資系企業には、本人のキャリアを尊重する会社が数多くあります。株式会社ワンキャリアが行った「2018年卒東京大学・京都大学生の就職ランキング」によると、第4位のP&G Japan(プロクター・アンド・ギャンブル・ジャパン)では、上司が部下に「君はこの会社で何がしたい?どうなりたい?」と定期的に尋ね、指導をするとともに、上司部下が合意したキャリアプランを文書にします。ある女性が「工場長になりたい」と希望した際には、工場長になるには海外勤務も必要、こんな仕事も必要……ということを明らかにし、順番にその経験を積ませたそうです。その方は、希望どおり工場長となり、今は生産担当の執行役員をされています。
日本ヒューレットパッカードも、部下に自分のキャリアを考えさせることを上司の責任と位置付けており、2週間~1カ月に1回、「1on1」という1対1の対話をします。マネジャーはカウンセラーの役割も担い、部下に対してアドバイスをしたり、なりたい仕事をしている先輩に話を聞きに行く機会を与えたりとサポートします。
多くの日本企業は、なぜ、こうしたことができないのでしょうか。いろいろ事情はありますが、とにかくピラミッド型組織の上意下達や年次管理からなかなか離れられないことが問題です。例えば、社員がある職種を気に入り、一生懸命勉強しても、その資格と関係のない違う仕事に回される。バブル時代には、社員を海外のMBAに派遣し、戻ってきたら、「バタ臭くなった」などといって地方の支店に送り、どぶ板営業をさせる。会社にはそれなりの考え方はあるのでしょうが、学んだことを使わせないと、モチベーションも下がりますし、知識やスキルもさび付いてしまいます。挙句のはてには、離職を誘発します。
どうすれば社員のキャリアを尊重することで、思い切り活躍してもらうことができるか――これは、これからの企業が考えていかなければならない大事なポイントです。これができれば、エンゲージメントが高まります。「仮にその会社がなくなっても、身に付けた知識、スキル、経験が別の会社で役に立つ」と思えば、社員は自分の仕事に熱心に取り組みますよね。なぜなら、それは、変化の激しい時代にあって、自分自身のキャリア展開に対する保険になるからです。
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第3回 私たちに求められる「キャリアシフト」>>>
法政大学名誉教授
諏訪 康雄(すわ・やすお)
1947年東京生まれ。 1970年一橋大学法学部卒業後、伊ボローニャ大学、東京大学大学院博士課程などを経て、1986年法政大学社会学部教授。その後、厚生労働省・労働政策審議会会長、中央労働委員会会長などを歴任し、現在、法政大学名誉教授。 著書に『雇用政策とキャリア権』『雇用と法』『労使コミュニケーションと法』『労使紛争の処理』(以上、単著)、『法律学小辞典』、Il diritto dei disoccupati(以上、共編著)、『判例に学ぶ雇用関係の法理』『外資系企業の人事管理』『概説オーストラリア史』(以上、共著)ほか。